別院紹介
沿 革
今は昔。広い十勝平野の中央に、数多の川の集う処。
北へ流れる開拓の人々が、将来、豊沃な農産物を容易に得られる点として、夢を託した帯広が―無限の夢を孕み、蝟集する人を受け入れて居た時代。
浄土真宗布教の第一歩、明治28年から9年の後、雨露を凌ぐ陋屋は、寒暖の差も厳しく、自然との斗いに、ともすれば荒び勝ちな人の心に、尾雪の老僧は、今日も明日も、彌陀の佛恩を、本願力の尊さを、倦むことなく説いて居た。
崇敬の信徒は、この街の発展と軌を一つにして膨らんでいった。
明治39年、大谷光瑞門主御巡教の砌り、300余名の信徒は、初代藤本長藏を總代として別院昇格を申請して居る。鏤骨の功を嘉されてか、40年10月、本派本願寺帯広別院として御認可され、新しい出発の時を迎える。時に老僧66才。初代輪番脇谷諦了。その人であった。
年を閲して昭和5年。歴代輪番と檀家の悲願の結晶であった本堂が完成した。御垂示を戴いたのは大正15年、諸般の事情から、帯広市民は素より、遠く道北・道東の配下寺院の信徒も馳せ参じて、喜びを共にした落慶法要の日は昭和10年9月のことである。
6代輪番田中哲巌と總代藤本長藏竝びに直参門徒は、今尚、道東に冠たる法城の建立を果たしたが、残債の完遂に心を碎いた、藤本の功績も銘記されるべきであろう。
爾後、別院の機構は着々と整正されて行ったのであるが、昭和32年別院創立50周年法要。昭和38年親鸞聖人700回忌法要を、何れも勝如上人をお迎えして修行されて居るが、その記念事業として、浄華堂・対面所・庫裡の落成を見た。
降って昭和59年。恰も宗祖聖人御誕生800年・立教開宗750年慶讃法要を厳修するに当たり、即如上人の御親修を仰いだ記念事業は、近代設備に意を注いだ、明るい別院の顔として、光照・光真御門主の一字を戴き「照真閣」と命名され、多目的使用も可能で、同行衆以外の方々の要請にも応えられる様になった。本堂建立にも比肩すべき大事業であった。
他に別院の育成した、帯広幼稚園。鉄南・藤花・さくら保育園。ボーイスカウトがあり、地域社会に密着して、その教化活動は顕著な実績を挙げて居る。
草創より現在まで、別院史の根幹を概観する時、何時の世にも、不退転の本願力に帰依する、念佛者の心が息吐いて居ることを知る。
此からも世界に法の和を拡げるべく、未来に向って心の灯を、赫々と點し続けて行き度いと冀うものである。 合掌。
建物・施設紹介
【配置図】 |
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【建物・施設】 | |
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照真閣 |
鐘楼堂 |
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第一浄華堂 |
第二浄華堂 |
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書院 |
東の間 |
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二の間 |
三の間 |
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ふれあいルーム |
対面所 |
仏前結婚式
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![]() 帯広別院では雅楽の生演奏の中「仏前結婚式」を挙げることができます。どうぞご相談ください。 |
葬儀・年回忌法要会場のご案内
・別院の会場を使用した場合、本願寺派(西本願寺)の作法に準じた正しい仏具・荘厳(お飾り)でご葬儀、ご法事を営むことが出来ます。
![]() 写真:本願寺帯広別院 照真閣(会館)講堂 -2009年-
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![]() 写真:本願寺帯広別院 照真閣(会館)講堂 -2020年-
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ご法事のこころえ | ご法事とは、阿弥陀さまから恵まれた、私のための尊い仏法聴聞の場です。 | |
● | 合掌の時には、手を合わせて「なもあみだぶつ(なまんだぶ)」と声に出してから礼拝(らいはい)いたします。 | |
● | 経本や念珠は直に床に置かず、大切に扱いましょう。 | |
● | ご法事は、施主やその家族だけで行うものではなく、参拝者も共にご法事を営む一員ですので、決してお客さんはありません。 | |
● | 5分前には、ろうそく、焼香、焼香用の炭に火をつけましょう。(基本的に線香には焼香いたしません) | |
● | リンは読経の時に使う仏具です。仏さまへの挨拶代わりに叩くものではありません。 | |
● | お斎(ご法事後の食事のもてなし)も大切な仏事の一部です。仏事にふさわしい振るまいを心がけましょう。 | |
● | 表書きは、寺院には「御布施」(寸志・経料などとは書きません)、「お車代」、「お斎代」と書きます。 お参りに行かれた場合は、「御香典」、「御仏前」と書きます。 |